涙が流されてしかるべき時、僕はまるでかたく閉まった蛇口のように一滴もそれを絞り出すことができなかった。その昔、黒いレースの手袋や口許にあてられた白いハンカチが僕の頭上を行き交い、御影石の床に重い百合の匂いが揺れていた日も、僕はひたすら考えていた。死ぬってどんな気分なんだろう、と。睫が涙に湿るいとまもないほど一心に考えても、しっくり当てはまる答えは見つからなかった。おかげで、その問いは僕の中に勝手に住みついた。そして不意をつくように顔を出しては、僕の頭を占領するようになったのだ。

 そう、あの時も僕はやっぱり考えていた。

 地下室の小窓から鉄格子の向こうの景色を眺めながら、死ぬってどんな気分なんだろう、と。茶色く立ち枯れた一面のトウモロコシ畑があいもかわらず風にカサカサとそよいでいた。その上には、やっと小指ほどの幅しか見えない青い空があった。

 高いところでヒヨドリの声がした。

 僕は、ひょっとしたら死ぬってそれほどたいそうな気分ではないのかもしれないと思った。たとえば、長いあいだ同じ姿勢でいた人が、ちょっと大きな伸びでもするような感じなんじゃないか。そんなふうに考えていると、いきなり僕の隣で声がした。

「覚えてるでしょう、母さんが出かける前に教えてくれたこと」

 僕と同じ濃い蜂蜜色の大きな瞳が、じっと僕を見つめていた。レンズのピントが急に絞られたように僕は母さんの言葉を思い出す。母さんは教えてくれたのだ。なぜ僕たちが隠れていなければならないのか、そのわけを。それはこれ以上ないほど単純な理由だった。だから見つかったが最後、二人とも間違いなく殺されるということは僕にもすぐに理解できた。

「私たちが誰だかわからないようにすればいいのよ。そうすれば殺されない」

 僕を見つめた瞳に、企みをふくんだ光がきらめいた。

「どうやってわからないようにするの?」

「これからはお互いの名前を口にしないようにするの」

 僕たちは小窓の下に積み上げた木箱から飛び下りた。

「じゃあ、噓の名前を考えるんだね?」

「噓なんて卑怯なこと、私たちにふさわしくない」

 ぴしゃりと言われて僕は黙った。そして、それもそうだと思った。なんといっても僕たち二人は、敵にとって殺す価値のある特別な子供なんだから。

 でもそれはそれとして、名前がないと困るような気がした。

「じゃあなんて呼ぶの? 離れ離れになったときなんか。ただ、おーい、って呼ぶの?」

「馬鹿ね。あんたは私を〈わたし〉と呼ぶの。私はあんたを〈ぼく〉って呼ぶわ。私の居場所がわからないときは、あんたこう囁けばいい。『わたし、どこにいるの?』って」

 僕はさっそく目を閉じると、真っ暗闇にいる気持ちになって両手を宙に伸ばした。

「〈わたし〉、どこにいるの?」

 〈わたし〉が小走りに地下室を横切る足音がする。そして身をかがめる気配。父さんのノートパソコンのある机のあたりだ。

「〈ぼく〉、私はここよ、私はここ」

 僕は〈わたし〉の声を頼りに歩きだす、クスクスと笑いながら。僕たちはいつもそんなふうに遊びを始めた。

いま思えば、この世に生を受けた時から僕たちはお互いにとってただひとりの〈わたし〉であり〈ぼく〉だったのだとわかる。幼い眠りの中で夢を分け合うことさえできた半身。

 あの十月、〈わたし〉と僕は七歳。おとぎと現実が二重螺旋のように編み合わされていた頃。僕たちは同じ日に生まれた二卵性の双子だった。

 

§       §       §

 

 事の起こりは金曜日の夜だった。大気をつんざくような轟音がして、僕たちはほとんど同時にベッドから跳ね起きた。子供部屋の窓に駈け寄ると、群青色の空をいくつもの光が尾を引いて走っていた。

「流星群だ!」

 僕は叫んでいた。まるで新年を迎えた時のように街の方角から次々と花火が上がる音がした。〈わたし〉が期待に満ちた目で僕を見た。

「もしかして、今日がその日なのかも……」

 だしぬけに子供部屋の扉が大きく開いて母さんが立っていた。灯りを点けなくても、空を走る光で母さんが微笑んでいるのが見てとれた。

「五分で用意なさい。出発よ」

 僕たちは喜びに息をつめて顔を見合わせた。

 予感的中。びっくりキャンプだ。

 しばらく前から父さんと母さんがこっそりと缶詰や飲みものを買いだめしていたのに僕たちは気がついていた。それで近いうちにきっとあるんじゃないかと思っていたのだ。

 母さんが軽快な足どりで階下へ向かい、僕たちはベッドの下から大急ぎでリュックサックを引っぱりだす。そしてキャンプに持参するもの―お気に入りのTシャツ、タブレット、ヘッドホン、歯ブラシやなにかをつめこむ。

 僕たちの父さんはいろんな理由をつけて〈びっくりキャンプ〉をやるのが大好きだ。『僕の乳歯が最初に抜けてから一年目の記念キャンプ』やら『〈わたし〉が初めてバレエの発表会に出た記念キャンプ』だとか、いつも出発まで内緒にしておいて驚かせるのだ。今回はこの流星群の記念キャンプだ。きっと今夜は見晴らしのいい湖畔に四人ならんで寝転がって、夜どおし空を眺めて過ごすのだ。

「行くわよ、早く」とリュックを背負った〈わたし〉が扉口から急きたてる。

 何をするにも、いつもほんの少しだけ僕より〈わたし〉の方が早いのだが、その点については生まれてきた時がそうなんだから仕方がないと受け入れていた。それに僕は男の子だから、そのうち自然と〈わたし〉の背丈を追い越して、高い棚の上のものなんかを取ってあげたりできるようになるのだと思えば、おおらかな気持ちでいることができた。実際にそんな日が来ることはなかったけれど、当時の僕はそのような未来を疑う根拠をなにひとつ持たなかった。

「ねえ、空を見たままジュース飲めるかな」

 僕はリュックを肩にかけ、〈わたし〉を追ってまっすぐな階段を駈け下りた。あと五センチ背が伸びたらこのつやつやの手すりを滑り下りて〈わたし〉に追いつけるかもしれないなんて思いながら。

「曲がるストロー使えば簡単でしょ」

 振り向きもせずに一階の廊下でそう答えると、〈わたし〉がいきなり足を止めた。

僕は彼女のギンガムチェックのリュックサックにぶつかってようやく、どうしたんだろうと廊下の先に目をやった。父さんが玄関の扉に内側から鍵をかけていた。ポケットのたくさんあるいつものキャンプ用ベストではなく、部屋着の薄いカーディガンを羽織っている。

「びっくりキャンプじゃないの?」

 〈わたし〉が尋ねた。父さんは僕たちを見てにやりと笑った。 

「今回は、特別のびっくりだぞ」

 父さんは春先に街に来たサーカスの道化師そっくりのおどけた歩き方でやってきて、ついてくるように腕を振った。わけがわからないまま僕たちはあとに続いた。

客間を横切り、書斎を抜けて台所脇の廊下に出ると、父さんは大仰に床を踏み鳴らしてひとつの扉の前に立ち止まった。何が始まるにしてもキャンプでないことだけは確かだという思いで僕たちは目を見交わした。そこは納戸の扉だったからだ。中にはクリスマスツリー一式や扇風機などの季節ものと、双子用の乳母車や二台の三輪車などのとっくに役目を終えた思い出の品がしまわれていた。子供部屋からここに来るまでの間に僕はすでにいくつもの流星を見逃しているだろうし、そのうえこれから出かける予定もないとわかって思わず落胆の溜め息が漏れた。

 その時、父さんが扉に向かって大きな声で意味不明の言葉を発した。途端に、誰も手を触れないのに扉がさっと開き、電灯のないはずの納戸に眩しい光が点った。「うわぁ」と僕は仰天して声をあげた。だが次の瞬間、自分ひとりが間抜けに思えて後悔した。納戸の中に懐中電灯を手にした母さんがいるのが見えたからだ。

 父さんは道化師になりきっているらしく、くるくると手首を回しながらお辞儀をして僕たちに中へ入るよう促した。〈わたし〉が先に立って足を踏み入れ、どこかに普段と違うところはないかと真剣な表情であたりを見回していると、今度は母さんが本物の魔法をやってのけた。壁の隅を押すと、それまで壁だと思っていた部分がアコーディオンのように折りたたまれて奥に空間が現れた。そこは隠されたクローゼットだったのだ。

 しかも驚いたことに、父さんがクローゼットの床を指で突くと取っ手のようなものが現れ、それを引っぱると床の一部が潜水艦のハッチのように持ち上がった。父さんが母さんから懐中電灯を受け取り、その光の輪の中に地下へと続く鉄製の梯子が浮かび上がった。家に地下室があるなんて、その時まで考えたこともなかった。異世界に誘うような銀色に光る梯子に、僕は期待と興奮ではち切れそうだった。

 母さん、〈わたし〉、そのあとに僕が続いた。校庭の鉄棒のような横木を一本ずつ慎重に摑んで下りていった。梯子は覚えのあるワックスの匂いがして、最近、錆を落としたのだとわかった。

 平らな地面に立って、僕は驚きに目を瞠った。台所と食堂と書斎を全部合わせたよりもずっと広々とした地下室はあちこちにランタンや枝付きの燭台が配され、橙色のきらめく光で満たされていた。オーバル形の大きなテーブルにはサイコロやピンを使ういくつものゲーム盤や組み木の立体パズル、外国のものらしい輪っかのパズルなどの遊び道具が並び、傍らには円いトランポリンやフラフープ、一輪車もあった。

 ハッチ式扉を閉めて最後に父さんが下りてきた。いつのまにかリュックを背負っていた。それを年代物らしいデスクに置くと、中からノートパソコンを取り出し、コンセントに繫いで起動させた。なんと地下室には電気がきているらしい。そのうえ、蛇口から水の出る流し場と奥には旧式のトイレまであった。

「おまえたちも二年生になって、体も丈夫になってきたようだから、そろそろ秘密を教えてもいい頃だと思ってな」

 父さんは得意顔で抽斗を開くとチョコバーを二つ取り出してデスクに置いた。夕食の後のお菓子はびっくりキャンプの時にだけ許される特別なおやつだ。僕たちはチョコバーを貪りながら、お祖父さんのお祖父さんが建てたこの家では、一族の子供に秘密の地下室の存在を教える際は、家族だけでそこで数日を過ごすきまりになっているのだと聞いた。

 母さんがにっこりと指さした先、ローテーブルとソファセットの向こうに子供用のベッドが二つ並んでいるのが見えた。新品の組み立て式のやつだ。ということは、籐の衝立の向こうに大人用のベッドがあるのだなと考えていると、〈わたし〉がチョコのついた指で天井を指して訊いた。

「あれはどうして?」

 見ると、天井にいくつかある電灯のソケットから電球がすべて外されていた。

「キャンプだからね、電灯はなしだ」

「じゃあ、あれは?」

 〈わたし〉は、一方の壁の天井近くを指した。道に面した方向のその壁には、上方に小窓らしきものがあるようだった。だが小窓は、黒いビロードで包んだ板でぴったりと塞がれている。母さんがランタンの脇にゲーム盤を広げながら答えた。

「ここを夜の森と同じにするためよ」

 確かにあそこから外の地面が見えたら興ざめだと思った。僕は指のチョコを舐めると、ゲーム盤に駈け寄って駒の並べ方を尋ねた。またしても〈わたし〉が先に駒を並べ始める。父さんがサイコロを握った手にふっと息を吹きかけてゲームが始まった。夜中に遊ぶなんてびっくりキャンプでもなかったことだ。僕たちは秘密の小宇宙に魅了されて流星群のことなんかすっかり忘れてしまっていた。

 その夜、眠る前に僕たちはお祈りをした。そんなことをするのはずいぶんと久しぶりのことだった。

まだ学校に上がる前の小さい頃は、夜、母さんが子供部屋に来てよく一緒にお祈りをしてくれたものだった。ベッドの脇に膝をついて両手を組み合わせ、心の声で神様に話しかけるのだが、母さんの『祈り』に対する考えは一風変わっていた。母さんは、神様を信じていない人にも祈ることが必要な時があり、その祈りが真実であればなんら恥じることはないと言明していた。あの幼い日々、心の声で何を祈っていたのか僕はまったく覚えていない。ただ、寝る前の短い沈黙の時間、自分の内側に生み出された静寂は、朝から〈わたし〉と二人で新しい遊びを編み出しては、叫んだり喧嘩したり笑ったりして昂ぶったままの神経を心地よい疲れに包んで、やさしく舟を曳くように眠りへと送り出す支度をしてくれた。

 僕たちは地下室の新品の組み立て式ベッドの脇に、母さんを真ん中にして膝をついた。僕はふと頭に浮かんだ問いを母さんに尋ねた。

「母さんは今も眠る前にお祈りをしているの?」

 なぜだか母さんはそれには答えず、黙って微笑んだ。父さんが、特別なキャンプだからと、ココアのカップを洗った手を拭きながらやってきて、〈わたし〉の隣に膝をついた。僕たちは初めて四人で一緒にお祈りをした。僕は心の声でこのキャンプができるだけ長く続くように祈った。そして小さい頃と同じようにベッドに入って枕に頭を載せるとすぐに眠りに落ちた。

 子供の眠りは悪夢に断ち切られない限り、深くすこやかに朝まで守られるものだ。ところが、あの夜はなぜかぷつりと眠りが途切れて目が覚めた。すべてのランタンと蠟燭の灯りが消された室内で、父さんと母さんがソファで肩をくっつけるようにしてノートパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。二人の背中に遮られて画面は見えなかったけれど、ひとつのイヤホンを片耳ずつに分けて聞いているのがわかった。

 〈わたし〉の方を見ると、とっくに目を覚ましていたらしくタオルケットの端を顎の下でぎゅっと握って、父さんたちの背中の方に目を凝らしていた。〈わたし〉のベッドからならディスプレイの一部が覗けるから、それに見入っているせいで僕が起きたことに気づいていなかった。つまり誰も僕が起きたことに気がついていない。   

そう思うと、僕は急にみんなを驚かせたくなった。

「何をしてるの?」

 ちょっとだけ大きな声で言ってみた。

 〈わたし〉がはっと息を吞み、一瞬とがめるようにきつく僕を睨んだあと目を閉じた。父さんが片耳のイヤホンを外して僕を振り返ると、特権を自慢するようなにんまり顔で「大人は子供よりも夜更かしできるから母さんと映画を観ているんだよ」と言った。それから校長先生のような厳かな調子に豹変して「ではおやすみ」と付け加えた。僕は「おやすみなさい」と答えてすぐさま寝たふりをしたが、そのじつ〈わたし〉の方を見て目を開けてくれるのを待っていた。声を出さずに口の動きだけで話すことくらい、僕たちには朝飯前だったからだ。ところが、父さんたちがまた映画を観始めてからも、〈わたし〉は目を開けてくれなかった。どんな映画なのか僕が教えてもらいたがっているとわかっているはずなのに、頑なに目を瞑ったままだった。〈わたし〉には、たまにわざとそういう意地悪をするところがあった。

 待ちくたびれた僕は腹を立てて寝返りを打った。そして、朝になっても僕が見た場面は絶対に話してやるもんかと心に決めた。父さんが振り返った時、ちらっとだけパソコンのディスプレイが見えたのだ。どこかの大きな野球場で誰かがホームランを打ったらしく、片腕を上げて歓声に応えながらゆったりと塁を回っているところだった。ひょっとしたら野球選手の映画かも知れないと思った。

 父さんと母さんは映画が好きで、結婚する前はデートのたびに父さんのピックアップトラックで街の映画館へ出かけていたらしい。父さんは恋愛もの、母さんは冒険ものを好んで観ていたというのは、お祖父さんが僕たち二人にこっそり話してくれたことだ。

 朝早くから農場に出る父さんと母さんの代わりに、僕たちと一緒にスクールバスを待ってくれたのはお祖父さんだった。バスは家の敷地の南角にある大きな楡の木の前で停まるのだが、その楡はお祖父さんのお祖父さんがこの土地に来た時に一目で気に入ったもので、それでお祖父さんのお祖父さんはここに家を建てることに決めたらしい。おかげで暑い夏の朝など、少しくらいバスが来るのが遅れても涼しい木陰で気持ちよく待っていられた。僕たちがバスに乗り込んでシートに座ると、お祖父さんは胸の前で両手を振って送り出してくれたものだった。それも前の年の夏までで、僕たちはすぐに二人だけでスクールバスを待てるようになった。

 オレンジとブルーの縞模様のバスは、農場地帯の一本道を北へ北へとのんびり走り、いくつもの家の前に停まっては子供たちを乗せ、小一時間かけて街の小学校に到着する。授業が終わるともちろん寄り道は禁止。校門で待っているバスに乗ってまっすぐ家に帰る。だから、僕たちが生まれた年に買ったというミニバンに乗って月に一度、家族四人で街に遊びに行く日は、ちょっとしたお祭りのような気分だった。

 街のショッピングモールには最新のゲーム機を揃えた電器店、キックボードやスケートボードもある大きな玩具店、母さんのお気に入りの手作りチーズの店や父さんがまとめ買いをする酒店、眼鏡や食器、ありとあらゆるものを売る店が集合していた。僕たちのお気に入りはなんといっても色とりどりのアイスクリームを売っている店だった。コーンに載せるアイスをじっくりと時間をかけて選び、それをベンチで食べるのは至福の時間だった。父さんと母さんはたいていソーダ水を飲みながら僕たちがアイスを食べるのをにこにこして眺めていた。ほかのベンチでは僕たちより年上の子供たちだけで集まってよくモバイル端末でゲームをしていた。僕たち低学年用のタブレットは教科書と図鑑に用途が限られていたから、上級生がとても大人に見えて羨ましかったものだ。

でも、地下室で過ごしたあの最初の晩、〈わたし〉に背中を向けて目を閉じた僕には、まだ手を触れていないパズルや未知のゲーム盤の方が何倍も魅力的に思え、次の朝がひたすら待ち遠しかった。

 

§       §       §

 

 小窓から差し込む朝の光で僕は目を覚ました。黒いビロードで覆われた板は、窓枠から外されて父さんの机の上、閉じたノートパソコンの横に置かれていた。〈わたし〉はもう着替えをすませてベッドを整えているところだった。

 朝食はいつもシリアルだったが、その日は戸外のキャンプと同じように父さんがハムと卵のホットサンドを作ってみんなで食べた。それから組み木のパズルをしたり、一輪車で追いかけっこをしたり、ジェスチャーゲームをしたり。父さんと母さんが一日中一緒に遊んでくれるなんて、びっくりキャンプでも滅多にないことなので(たいてい途中でくたびれて昼寝をしてしまう)、僕たちは朝からはしゃぎっぱなしだった。

 夕方になると父さんが小窓を黒い板で塞ぎ、母さんがランタンに灯りを点した。そして二人で豆の缶詰や干し肉で夕食を作り始めた。すると、それまで僕と同じくらいはしゃいでいた〈わたし〉が急に真顔になったかと思うと、僕を地下室の隅の暗がりに引っぱっていった。

「父さんが振り返ったとき、見えたでしょう?」

 声を殺して〈わたし〉が尋ねた。僕は初めなんのことかわからなかったが、どうやら昨晩の映画のことだと気がついた。あのとき僕を無視しておいて今さら訊くなんて癪に障った。

「さあね。そっちこそ見えたんじゃないの?」

「先に言ったら、教えてあげてもいいわよ」

 僕と同じ背丈の〈わたし〉は昂然と頭をそらせた。

「私の方がずーっとたくさん見えたんだから」

 この種の交渉事で僕が〈わたし〉に勝利したことはかつてなかったし、その時もそうだった。僕は渋々ながらホームランを打った野球選手の話をした。

「で、そっちは何を見たの?」

「その野球選手の子供時代よ。街で……グローブを買ってもらうところ」

 それだけ言うと〈わたし〉は身を翻してキャンプ用の食卓の方へ向かい、夕食のためのプレートを並べ始めた。やっぱり野球選手の映画だったんだと納得しつつ、僕は夜はゲームじゃなくてみんなで映画を観たいなと思った。クラスの友達に、真鴨の一家が冒険の旅に出る面白いアニメーションが配信されていると聞いたのを思い出したのだ。

 食後のリンゴを食べながら僕がその話をしようとした時だった。聞いたことのない凄まじい轟音があがり、地響きが走った。火の点いた枝付きの燭台があちこちで倒れた。母さんがすぐさま僕たちを抱えてオーバル形テーブルの下へと待避し、父さんが毛布で蠟燭の火を叩き消していった。

 そんなことは生まれて初めてだったので僕は何が起こったのかわからなかった。それでも母さんがテーブルの下で僕たちを抱き寄せたまま「夕食の後でよかったわね」とクスリと笑ったので、なんとなくほっとした気分になった。電池式のランタンをたくさん点けていたから部屋が明るいままだったことも怖さを和らげてくれた。

壁掛け時計を見上げると、午後七時二十五分だった。とりあえず父さんが階上と外の様子を見に行くことになった。銀色の梯子の脇で、父さんと母さんが小声で話しているのが耳に入った。父さんが夕方に小窓を塞いだとき空の様子がおかしかったらしい。

 父さんが戻ってくるまでの半時間あまりがとてつもなく長く感じられた。母さんは床に転がったリンゴを片付け、僕たちとソファに座って待った。〈わたし〉は怒ったようなこわい顔で指の節が白くなるくらいかたく両手を握りしめていた。

 潜水艦のハッチのような扉が開いて、父さんが梯子を下りてきた。沈んだ寂しげな顔を見て、僕たちは父さんがソファに腰を下ろすまで何も訊けなかった。父さんはなんとか口の両端を上げて微笑んでみせた。

「あの楡の木はもう、だめだよ。幹が真っ二つになったんじゃあな」

 敷地の南角の楡の木が雷で真っ二つになって倒れてしまったのだという。お祖父さんのお祖父さんが若い頃からこの家を見守っていた楡。学校へ行く僕たちを見送り、迎えてくれた楡。あの大きな木が倒れてしまったと思うと、大事なものの一部がなくなってしまったようで悲しかった。幹の下敷きになってガレージごとミニバンはぺしゃんこになっていたそうだが、あの楡は車のようにお金では買えないものだった。山の送電塔も雷にやられたようで、消防の人が見回っていたらしい。その人の話では、電気が回復するまで学校も臨時休校になるそうだった。

「よし、こうなったら記録に挑戦だ!」

 父さんがいきなり両膝を叩いて立ち上がった。

「記録って何の?」 

 僕は急に元気になった父さんに驚いて尋ねた。

 父さんがお祖父さんに初めてこの地下室の存在を教えてもらった時は、ひと夏ここから一歩も出ずに過ごしたらしい。それでもお祖父さんの記録には敵わなかったという。お祖父さんが秘密の地下室を知ったのは学校に上がる前だったので、無敵の滞在記録を保持しているというのだ。僕は前の夜に確かにここでできるだけ長く過ごしたいと願ったけれど、おのずと限度があると思っていたし、せっかくの臨時休校は森で木の実やきのこを探して遊びたかった。秋の森は珍しい宝物でいっぱいなのだ。

 僕は父さんの提案にすぐさま異議を唱えた。僕たちは『二人一緒なら』という条件つきで自転車で森へ行くのを許されるようになっていたから、当然〈わたし〉も僕に加勢してくれると思っていた。ところが、どうしたことか〈わたし〉は、父さんの記録挑戦の方に賛意を示したのだった。僕があっけにとられているうちに事は決まってしまった。

 

§       §       §

 

 当然のことながら、電気の来ない地下室で父さんのノートパソコンは早々にバッテリーが切れてただのガラクタになった。もちろん僕たちのタブレットもその前に暗くなっていた。学校もなく、インターネットもテレビもない地下室にずっといると、次第に曜日や日付の感覚があやふやになってきた。

 その頃にはさすがに僕も、記録に挑戦というのは口実で、なにかここにじっと隠れていなければならない理由、それも父さんたちに訊いてはならない理由があるのだと考えるようになっていた。そして、〈わたし〉は僕より先にそのことに気づいていたのだと思った。

 考えてみれば、小窓から見えるトウモロコシ畑は夏に収穫を終えているのだから、例年なら枯れた茎をとっくに刈り込んで、もうレタスや豆類を植えている頃だった。

 地下室の戸棚をかき回していた父さんが、古いカレンダーを見つけた。ちょうど八十年前のそのカレンダーを一瞥して、そこに記された八月と、僕たちが地下室を知ったあの十月が、同じ曜日になっているのを発見したのは〈わたし〉だった。父さんがマジックで八月という字を消して十月に、九月を消して十一月に、十月を消して十二月に直して壁に掛けた。それからは、毎朝起きると前の日の日付に×をつけるのが僕の仕事になった。

 最後のリンゴがなくなって、一日おきに瓶詰めのシロップにつけた杏が僕と〈わたし〉のプレートに載るようになった。父さんたちはもう長く果物を口にしなくなっていた。

 やがて父さんと母さんはあまり食事をとらなくなった。

 そしてある夜、父さんが『宝探し』に出かけることになった。宝が食糧を意味しているのは明らかだった。子供は母さんと一緒に待っているようにと父さんがどんなに諭しても、〈わたし〉は一緒に行くと言ってきかなかった。〈わたし〉はリュックを背負って梯子の前に立ち塞がり、自分はすばしこいから必ず役に立つ、父さんひとりでは行かせないと激しく言い立てて譲らなかった。いつも理詰めで時には学校の先生もやりこめてしまう〈わたし〉がそんな頑是ないふるまいをするのは初めてで、僕はどうしていいかわからずおろおろするばかりだった。

 母さんが僕と〈わたし〉の肩に手を置いた。そして、父さんに言った。

「この子たちも、もう役目を果たせるはずよ」

 母さんは『宝探し』には、子供にしか果たせない役目があることを教えてくれた。しかし、それを果たすには子供は父さんとは別の扉から出かけなければならなかった。

 〈わたし〉と僕は、母さんに言われたとおり小窓の下に木箱を重ねて並べた。それから父さんがリュックを背負って地下室を出た。ハッチ式の扉を閉めると階上の足音はまったく聞こえなくなった。

だが僕たちは、僕たちの頭上を父さんがどんなふうに進んでいるのか正確に思い描くことができた。父さんは闇に慣れた目でゆっくりと書斎と客間を横切る。そうして廊下に出る。向かい側は居間で、開けたままの扉から窓際のピアノがぼんやりと見える。父さんはちょっと立ち止まってそれを眺める。譜面台には僕と〈わたし〉が最後に連弾した曲の楽譜が開かれている。当たり前のようにあった日常を、父さんはきっと遠い昔のことのように思い出す。でもすぐに玄関扉へと向かう。その歩数も僕たちにはわかる。父さんが鍵を開けて外へ出る。前庭を通って道をトウモロコシ畑に沿って歩く。もうすぐだ。母さんが外に灯りが漏れないようにランタンを消す。そして、ぴったりのタイミングで小窓を塞いだ黒い板を外す。

 道を挟んで僕たちの真正面に、父さんが片膝を突いてかがんでいた。父さんはほんの一瞬、小さな懐中電灯を点けて消す。トウモロコシ畑を背にした父さんの姿が蛍のように浮かんで消える。僕たちはそれを目に焼きつける。茶色い茎の群立つあの場所が、夢の入り口だ。

 母さんが素早く小窓を塞ぎ、ランタンを点して言った。

「さあ、追いかけるのよ」

 〈わたし〉と僕は木箱から飛び下り、一刻も早く眠りに落ちようとベッドにもぐりこんで目を閉じる。僕たちはあの入り口から夢の中に入って父さんを手助けするのだ。前方に恐ろしい獣や罠、薮に覆われた古井戸はないか、僕たちは風のように夜を駈け巡って父さんに危険を知らせる。それこそが子供にしかできない仕事だったのだ。

 隣のベッドからすぐに〈わたし〉の静かな寝息が聞こえた。でも僕は怖くて眠れなかった。夢の中でもし父さんや〈わたし〉とはぐれたら、僕はきっとひとりでは戻ってこられないと思ったからだ。役立たずの負い目を感じながら僕は寝たふりをした。

 母さんが手を握ってくれて、ようやく明け方に少しうとうとした。僕は夢を見ずに朝の光で目を覚ました。しかし、父さんは無事に帰ってきていた。しかもリュックに宝物をつめて。

「これはみんなの手柄だぞ」

 そう言って父さんは僕と〈わたし〉の頭を力強い手で撫でてくれた。〈わたし〉が僕に満面の笑みを向けた。それを見るうち、僕は夢を覚えていないことくらい誰にだってあると思いついた。忘れてしまったけれどきっと僕はなにか役に立ったのだ。

 父さんが宝探しから戻るたびに、僕たちは収穫の中からひとつを選んで、朝ご飯にささやかなお祝いをした。それは鰯の缶詰やコンビーフのこともあれば、小さな布袋に入った雑穀のこともあったが、四人で食べればなんだって美味しい気がした。

 けれども、月の明るいある晩、父さんは宝探しに行ったきり戻らなかった。

 〈わたし〉は母さんが何を言っても聞き入れず、水とドロップ一個を口にしただけで二日間眠り続けた。だが、父さんを連れ帰ることはできなかった。 

 それから七日目の夜、とうとう母さんが宝探しに行くことになった。リュックを背負った母さんが、出かける前に僕たちが隠れていなければならない理由を教えてくれた。

 お祖父さんのお祖父さんは遠い国の王様の一族で、叛乱を起こした臣下から逃れてこの地にきたのだという。しかし、この地に逃げ延びたことをついに敵に突き止められてしまった。敵にとってその子孫は根絶やしにしなければならない存在であるらしい。

「わたしたちは、最後の王女と王子ということ?」

 〈わたし〉が母さんに尋ねた。母さんは静かに答えた。

「そうよ。だから何があっても、どんなことをしても、おまえたちは生きなければならないの。わかるわね?」

 僕たちは黙って頷いた。

 母さんは銀色の梯子を上って出かけていった。僕たちはもう夢の力を信じていなかった。でも、母さんを心配させないように、母さんが書斎と客間を通って廊下へ出て、玄関から前庭、そして立ち枯れたトウモロコシ畑に姿を消すまでの間、じっと母さんの歩数を数えて待った。それから外に灯りが漏れないようにランタンを全部消してから、小窓を塞いだ板を外し、父さんの時と同じように枯れた茎を背にした母さんの姿が浮かんで消えるのを見守った。だが、母さんの姿が畑の闇の中に消えてからも、僕たちはベッドに入ることなく木箱の上に立ったまま、外に目を凝らして母さんが戻ってくるのを待った。

 長い夜だった。風もなく、目を開けていても瞼を閉じているような漆黒の闇だけがあった。僕と〈わたし〉は顔を並べて小窓に張り付いていた。やがて闇がわずかに群青を帯び、立ち枯れたトウモロコシの群落と空の境がぼんやりと現れ始めた。まだ鳥の声もない夜明け前、遠くでガサガサと葉の擦れる音がした。

「聞こえた?」と、僕は声を殺して囁いた。

 すぐ隣で〈わたし〉が二度、素早く頷いた。

 薄い刃物が擦れるような音が次第に大きくなり、ついに枯れた茎をかき分けて近づいてくる母さんの姿が見えた。小窓に仄白く並んだ僕らの顔が見えたのだろう、母さんが走って畑から道へ飛び出した瞬間だった。橙色の眩しい光が真横から母さんを捕らえた。立ちすくんだ母さんの胸が大きく波打つのが見えた。母さんはすぐさま膨らんだリュックを道に捨てるとトウモロコシ畑へと取って返した。僕たちの目の前にヘッドライトを点けたジープが停まった。そして、銃を背負った数人の男たちが車を降りると、鬼ごっこのように楽しげに母さんを追って畑の中に姿を消した。

 小窓の格子を摑んだ両手が痺れて痛くなっても、母さんはなかなか戻ってこなかった。あたりが群青から薄い墨色に変わる頃、男たちが母さんを引きずるようにして畑の方から帰ってきた。母さんのブラウスは引き裂かれ、髪は乱れ、運動靴は片方だけになっていた。男のひとりが道端の母さんのリュックを拾って車の座席に投げ入れた。ジープへと引っぱっていかれる時、母さんは一度も僕たちを振り返らなかった。こちらを見れば、僕たちがここにいるのが敵に知られてしまうからだ。母さんの毅然とした背中が、はっきりと伝えていた。僕たちが何者であるかを決して忘れないように。

 男が母さんをジープに押し込んだ。いきなり、〈わたし〉が木箱から飛び下りて梯子へと駈け出した。微かな物音を聞きつけたように男があたりを見回し、僕は慌てて小窓を塞いだ。〈わたし〉はあっという間に梯子を上って扉の取っ手を摑んだ。その時、走り去るジープの方から、パンッ! と爆竹のような乾いた音がした。

 〈わたし〉と僕は凍りついたように息をつめて互いを見つめていた。かなり経ってから〈わたし〉はうなだれて梯子を下りると、自分のベッドへ行って腰を下ろした。それからというもの、僕たちは車から聞こえた音について一言も口にすることはなかった。

 秘密の地下室にいるのは僕と〈わたし〉だけになった。

 明るくなると木箱に上って小窓から外を眺める。風が吹いて昼になり、夕方になり、僕たちは小窓を塞ぐ。一枚のビスケットをできるだけゆっくりと食べて水を飲み、ベッドに入る。

「ねえ」と、僕はタオルケットに包まって〈わたし〉に話しかける。

 〈わたし〉は何も訊かなくても答えてくれる。

「きっとね、今は動けないのよ。動けたら帰ってくるはずだもの」

「そうだね」

 父さんと母さんが戻らないのは動けないからだと、〈わたし〉が〈わたし〉を納得させているように、僕は僕を納得させる。それから、入道雲を見上げていたお祖父さんの顔を思い出す。

 お祖父さんは、前年の七月の真昼、トウモロコシ畑に仰向けに寝転がっていた。楡の木の方から遠く蟬の声が聞こえていた。鼻先を蜜蜂が掠めても、お祖父さんはまばたきもしなかった。父さんが来てそばに膝をついて、お祖父さんの瞼を下ろしてあげた。お祖父さんは、僕が見た初めての動けない人だった。

 黒いレースの手袋と白いハンカチ。重い百合の花の匂い。お祖父さんのお葬式の間中、僕は考えていた。死ぬってどんな気分なんだろう、と。そうして、解けない問いが僕の頭に住みついたのだ。

 〈わたし〉と二人だけの透明な十月。僕は陽のある一日、木箱に乗って小窓から鉄格子の向こうを眺めていた。カサカサと風にそよぐ立ち枯れたトウモロコシ畑。母さんが最後に触れたその茶色い茎。かつて夢の入り口があった畑。見えるのはやっと小指ほどの狭い青空。高いところでヒヨドリの声がした。

 そう、あの時も僕はやっぱり考えていた。死ぬってどんな気分なんだろう、と。それを感じて、〈わたし〉はあんなふうに声をかけたのかもしれない。

「覚えてるでしょう、母さんが出かける前に教えてくれたこと」

 〈わたし〉と僕は、遠い国の最後の王女と王子。僕たちはそれに相応しい態度を心がけるようにした。メソメソせず、空腹を忘れるために、可能な限りすべてのことを遊びに変えた。

 十月も終わりに近づいたある朝、いつものように少しだけ先に目を覚ました〈わたし〉が、突然、思いもよらなかった大発見をしたように大きな声をあげた。

「敵はもうここへは来ないんだわ」

「どういうこと?」

 僕はまだ眠い目を擦りながら尋ねた。

「だって、母さんを畑から連れていった奴らが、この家を調べないはずがないでしょ」

「僕たちを捜しに戻ってきたってこと?」

 そう訊き返してすぐに僕は、自分たちが王族の末裔であることを思い出した。〈わたし〉は大きく頷いてベッドから飛び出すと、潜水艦のハッチのような地下室の扉を指さした。

「あの扉が閉まっていると、上の家の中の物音はちっとも聞こえない。だから私たちは眠っていて気づかなかったのよ」

 眉を寄せて腕組みをした〈わたし〉は、ベッドの間を行ったり来たりしながら話し続けた。

「書斎に置いてあったお祖父さんの天体望遠鏡や、客間のアネモネの絵なんかはきっと盗られてるわ。ああ、お客用の銀のナイフとフォークセットも!」

 話を聞いているうちに僕は、家を荒らし略奪する男たちを見たような気がしてきた。

「僕、夢で見たよ。汚い靴の男たちが客間や書斎を歩き回ってた」

「あいつら子供部屋のベッドの下も覗いてたでしょ。でもどこを捜しても私たちが見つからなかったから」

「腹を立てて父さんたちの寝室へ行って」

「母さんの宝石箱を持ってったのよ」

 〈わたし〉と僕は眠りの中で同じひとつの現実を夢に見ていたのだと感じた。とても高揚して僕たちは頰を火照らせたまましばらく互いに無言で見つめ合っていた。

 「どうする?」と、声を押し殺して訊いた。ずいぶんと久しぶりに、僕は自分の中に活力が湧くのを感じていた。仕返しの方法など思いつきもしなかったが、僕の胸には幼い復讐の火が点っていた。

「言ったでしょう、敵はもうここへは来ないって。だったら、やることはひとつよ」

 〈わたし〉は決然と言った。それは僕の予想だにしていない答えだった。

「私たち、二人で宝探しにいくのよ」

 仕返しは力を蓄えて武器を手に入れてからでないと返り討ちに遭うだけ、という〈わたし〉の言葉には説得力があった。敵はもう来ないのならこれまでのように夜を待つまでもない。僕たちはすぐさま身支度を整えてリュックを背負った。

 初めて地下室に下りた時と同じに、〈わたし〉が先に立って梯子を上った。納戸のクローゼットの中は真っ暗だろうが、手探りで廊下に出れば窓から昼の陽光が差し込んでいる。僕たちはそう思っていた。ところが、〈わたし〉がハッチ型の扉の取っ手を押し上げた途端、眩しい陽差しが流れ込み、地下室の薄明かりに慣れた目を容赦なく射貫いた。僕たちは痛みに顔を顰め、薄目のまま地下室から這い出た。

 あたりには粉々になった木材と硝子、コンクリートの破片が散らばっていた。水色の窓枠とピアノの蓋が転がっているのが見えた。僕たちの上に屋根はなく、うろこ雲のかかった青空が広がっていた。

家がなくなっていた。

 残っていたのは壁の一部と玄関の敷石くらいだった。壁からは階段が無意味に突き出していたが、その先に二階の廊下はなく、つやつやの手すりも崩れ落ちていた。

 僕はわけがわからなかった。父さんが宝探しに行った時も、母さんが行った時も、僕たちは階上の家の中を歩く歩数を数え、それはいつもきちんと合っていた。書斎と客間を通って廊下に出て、まっすぐに玄関の扉から外の道へ。そして二人ともぴったりのタイミングで地下室の小窓の正面に姿を現した。それなのに、家は一体いつなくなってしまったんだろう。

 敷地の南角を見ると、父さんの言っていたとおり、倒れた楡の下にガレージとミニバンが潰れたサンドイッチのように横たわっていた。

 それを眺めるうち、僕は気がついた。

「……雨が降らなかった」

 すぐ横に座り込んでいた〈わたし〉が僕を振り返った。陽の光の下で見ると、ずいぶん瘦せて目ばかり大きく見えた。きっと僕も同じなのだと思った。

「楡の木に雷が落ちたって、父さんが言った夜のことね?」

 〈わたし〉の言葉に僕は頷いた。そんな近くに雷が落ちて、雨が降らないはずがない。それなのに、僕たちはあの夜、トウモロコシ畑を濡らす雨の音を聞かなかった。

 〈わたし〉が小さく息をついて言った。

「消防の車の音も聞こえなかったね」

「そうだね」

 父さんは消防の人が見回っていると言ったけれど、僕たちは外の道を行く車の音も聞いていなかった。あの時に僕たちの家はなくなったのだ。それを僕たちに知らせないために、父さんと母さんは、書斎や客間のあった場所の瓦礫の上を歩いて玄関の方から道に出ていたのだ。

 「でもなんでこんな」と、言いかけた僕に、〈わたし〉が促すように視線を北に―街の方に転じて見せた。

 街はいくつかの杭が突き出ただけのシルエットになっており、あちこちで太く細く黒煙が空へ立ちのぼっていた。それは黒焦げになった骸骨を思わせた。

「父さんたちが最初の晩に観ていたのは、やっぱり映画じゃなかったのよ」 

 〈わたし〉が覗き見たディスプレイには、僕たちの小学校がある街によく似た風景が映っていたのだという。だが、いつもスクールバスで走る大通りにはクレーターのような穴が開いており、モダンな集合住宅はケーキを斜めに切ったようにいくつもの部屋が中空に剝き出しになっていて、傾いた床にぶら下がったベビーベッドや、裂けたカーテンが揺れているのが見えたらしい。ショッピングモールは土台だけを残して崩れ落ちていたという。

「だから、最初はどこか外国の街なんだろうと思ったの。ううん、違う。外国の街でありますようにって思った」

 僕は気持ちが悪くなって瓦礫の上に吐いた。空っぽの胃からは透明な胃液しか出なかった。〈わたし〉が僕の背中をさすってくれた。

「……でも僕は、野球場でホームランを打つ選手を観たよ、噓じゃないよ」

 「だからね」と、〈わたし〉はまっすぐに僕の目を見つめてゆっくりと言った。「父さんたちは、インターネットで外国のニュースを観ていたの。外国の人にとって、ここは遠い街なの。遠い街が爆撃されたというニュースのあとに、その国のスポーツニュースをやっていたの。私たちも居間のテレビで同じようなニュースを観たことがあるでしょう?」

 僕は喉に熱い氷が詰まったように言葉が出なかった。

 〈わたし〉が手を握ってくれて初めて自分が震えていることに気づいた。〈わたし〉は、僕と自分自身に言い聞かせるように言った

「金曜日の夜に見たのは、流星群じゃなかったのよ」

 僕は奥歯を嚙みしめて頷いた。最初に気づくべきだったのだ。本当の流星群なら、皆既月食の時と同じように事前に理科の授業で見える時刻や方角を学んだはずなのだ。

 あれは街を攻撃していたミサイル。あの夜のうちに大勢が死んだのだ。地下室に避難するのが一日遅ければ僕たちもこの家の残骸に、コンクリートや木材の瓦礫に埋もれていたはずなのだ。

 〈わたし〉が手本を見せるように立ち上がった。そして洋服の埃を両手でパンパンと叩き落として言った。

「さあ、出かけるのよ」

 やるべきことに集中しなければならないのだと思った。

「宝探しだ」

 そう言うと、僕はいきなり先に駈け出した。すぐに追い越されるとわかっていたけれどトウモロコシ畑まで全力で走った。

 丈高い茎と大きな葉は僕たちの姿をすっぽりと覆い隠してくれた。陽に温められた土の匂いが懐かしく感じられた。僕たちは歌もお喋りも封印して黙々と歩き続けた。

 畑を突っ切って森を目指す。それが僕たちの計画だった。この季節の森には木の実やなにか必ず口にできるものがあるからだ。問題はいつ森に着くか、という点だった。道を自転車で行く時の三倍かかるとして、森に辿り着いた時点で食べ物を探す体力が残っているかどうか不安だった。というのも、ついさっき家の跡から畑まで全力で走っただけで、僕は畝に倒れ込んでかなり休まなければならなかったからだ。

 陽が真上にさしかかった頃だった。〈わたし〉がいきなり沈黙を破った。

「あれ見て!」

 〈わたし〉は斜めに畝を横切り、僕はよろよろとあとに続いた。

 茶色い茎の根元に青い布袋のようなものが落ちていた。布にはボタンがついており、どうやら長袖のデニムのワークシャツを風呂敷代わりにしてなにかを包んだものらしい。

 固い結び目を二人がかりで引っぱって解いた。すると父さんのより少し大きなワークシャツが開いて、中から魚のオイル漬けや豆の缶詰、棒干し肉が三本、箱入りのクラッカー、そのうえ僕たちの顔くらいある丸いパンが転げ出た。パンなんて最後にいつ食べたのかもう思い出せなかった。

 夢でも見ているようで、僕たちは少しのあいだ口を開けて茫然とワークシャツの中身を眺めていた。

「近くにもっとなにかあるかもしれないよ!」

 僕は俄然、元気が出てあたりを探そうとした。すると〈わたし〉がびっくりするような強い力で僕の腕を摑んだ。

「だめ! 帰るのよ、今すぐ! 早く!」

 〈わたし〉は大急ぎで食べ物をワークシャツに包み直すと、有無を言わさぬ調子で来た道を戻り始めた。地下室に戻らないと缶切りがないから缶詰は食べられない。それを思うと、僕は魚を挟んだパンにかぶりつくという誘惑に瞬時に屈した。

 宝物を浪費しないように、一日分の食料をきちんと分けて戸棚にしまうのは〈わたし〉の仕事だった。〈わたし〉は算数で飛び級をしてもう割り算を習っていたから、僕は信頼して任せることができた。

 もちろん宝物を得た日のささやかなお祝いは欠かさなかった。僕はまさに思い描いたとおり魚を挟んだパンにかぶりついた。食事の間中、僕たちは喋り続け、笑い続けた。そして僕は空腹を感じずにベッドに入るなんていつ以来だろうと思いながら、満ち足りた胃袋で眠りについた。

 

§       §       §

 

 その夜だった。僕は途切れ途切れの声で目を覚ました。最初はわからなかったけれど、やがて〈わたし〉が泣いているのだと気がついた。僕は驚いて枕元の短い蠟燭に火を点し、〈わたし〉のベッドへ近づいた。

 〈わたし〉は体を丸めて横たわり、泣き声を吞み込むようにしゃくりあげながら肩を震わせていた。見開いた目からはとめどなく涙が流れている。

 夕食の時はとても元気で楽しそうだったのに。僕は心配になって〈わたし〉の顔を覗き込んで視線を捕らえた。

「ねえ、どうしたの? どこか痛いの?」

 僕を認めた〈わたし〉の目から、また泉のように涙が溢れた。

「……その人……」

「その人って?」

「……宝物を、集めた人。……その人は、母さんみたいに、敵に見つかって、宝物を置いて、逃げるしか、なかったの」

 僕の頭に、ヘッドライトに真横から照らし出された母さんの姿が蘇った。母さんの胸が大きく波打った。リュックを捨て、身を翻してトウモロコシ畑に消えた。

 僕は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。でもなにか話をして〈わたし〉の気持ちをなだめるほかないと思った。

「でも、その人は男の人だよ、大きなワークシャツだもの。ひょっとしたら逃げられたかもしれない」

 〈わたし〉は大きな目で僕を見つめたまま頷いて言った。

「そう。その人は父さん、みたいに、すごく足が速くて、敵は追いつけなかったけど、銃の弾の方がもっと速くて……」

 僕はぎょっとして身を引いた。

 走る背中を撃ち抜かれて倒れる誰かを見たような気がした。

 僕があの宝物が置かれていた周りを探していたら、畑に倒れた誰かの死体に出くわしたかもしれない。

-―だめ! 帰るのよ、今すぐ! 早く!

 そのことを、〈わたし〉はきっとあの宝物を見つけた時から考えていたんだと思った。

 〈わたし〉が苦しそうに息を継いで続けようとした。

「その人は、やっぱり、どこかの家の、お父さんか」 

 僕は咄嗟に激しく遮っていた。

「でも知らない人だ、僕たちの知らない人だよ!」

 まるで胸に石つぶてをぶつけられたみたいに〈わたし〉が身を硬くした。

 見開かれた目が歪んだ。

〈わたし〉を傷つけたのだとわかった。

 だが僕も、〈わたし〉と同じくらい自分の言葉に驚き、傷ついていた。

「ごめん……」

 不意に、もうこんな時間を終わりにしたいと思った。僕は〈わたし〉に泣くのをやめて、眠ってほしかった。温かいミルクがあればいいのにと思った。

 僕は〈わたし〉に訊いた。

「……お祈りをする?」

「なんのために……?」

 〈わたし〉はもう僕を見ていなかった。涙で皺になったシーツにぼんやりと頰を載せているだけだった。

「……くたびれたから、寝るね」

 返事がないのはわかっていた。僕は自分のベッドに戻り、短い蠟燭を吹き消した。それから闇の中でタオルケットを肩まで引き上げ、何も考えずに目を閉じた。

 浅瀬のような眠りから覚めると、地下室の闇が奇妙に濁っていた。ハッチ式の扉が開いて、夜明け前の薄明が差し込んでいた。隣のベッドに〈わたし〉の姿はなかった。

 梯子を上って地下室を出ると、瓦礫となった家の一隅に〈わたし〉が立っていた。目を閉じて、あるかないかの風に吹かれている。

 壁の一部と玄関の敷石を残して破壊された家。

 僕も目を閉じた。すぐに僕たちの家が戻ってきた。この先に扉があって、開けると書斎。それから客間。ピアノのある居間。子供部屋の壁紙の模様まではっきりと思い出すことができる。でも、それらはもう記憶の中にしかない部屋たちだ。

 僕は家に別れを告げて目を開いた。母さんが僕たちの心を守るために教えてくれたおとぎ―遠い国の王女と王子のおとぎは、魔法が消えるように効力を失っていた。

 僕と〈わたし〉は、ただの子供。

 ここは、ただの子供が殺される世界。

 戻ろう、と〈わたし〉に声をかけようとして、僕は立ちすくんだ。

 〈わたし〉が、壁の一部から無意味に突き出した階段を上っていく。手すりも壊れて、どこにも繫がっていない階段を一段、また一段と。壁に沿って上った先にはただ空がある。誘うように風の吹く空がある。

死ぬってどんな気分なんだろう。そう〈わたし〉が思っているのがわかった。

 僕は恐怖に足首を摑まれたように身動きができなかった。

 〈わたし〉が、最後の一段を上る。髪が風に揺れる。〈わたし〉は空へと跳躍して、もう戻ることはない。

 置いていかないで。

 声にならない言葉が、虚しく胸の中で響いた。

 その時、動けない僕の手の甲をなにかが掠めて落ちた。

 鈍い光を湛えた薄灰色の空から、柔らかに雨粒が落ちてきていた。

 中空に〈わたし〉をとどめたまま、僕の代わりに泣くように雨が降っていた。僕は瓦礫の中に立ち尽くして、ただ〈わたし〉を見上げていた。

 空は明るみもせず翳りもせず、時間がとまってしまったように雨が〈わたし〉を包んでいた。髪も服もすっかり濡れそぼっても、〈わたし〉は階段の最後の段に佇んでいた。

 やがてふと肩を下げてうつむくと、〈わたし〉は上っていった時と同じようにゆっくりと下りてきた。

 僕たちは小さい頃によくしたように黙って手を繫ぐと、雨の匂いのする瓦礫の上を歩いて地下室に戻った。そして濡れた服を着替えて、前の日に切り分けた朝食ぶんのパンを食べた。

 二人きりで地下室で生きている僕と〈わたし〉は、宝を集めた見知らぬ人と同じように、世界のほとんどの人にとって、見知らぬ誰かだった。

 その日から僕たちは一日の終わりに、見知らぬ人のために祈るようになった。

 凍えている人に毛布が与えられるように。お腹のすいている人に食事が与えられるように。疲れた人に身を横たえる場所が与えられるように。孤独な人の肩に誰かがそっと手を置いてくれるように。

 当時の僕たちは、そうすることでかろうじて世界と繫がっているように感じられたんだと思う。

 

§       §       §

 

 僕と〈わたし〉は二人だけで二十三日を生き延びた後、街へ食糧支援に向かうトラックの人々に発見され、保護された。幸運にも、親戚の何人かは生き残っていて、僕たちを引き取ってくれることになった。けれども彼らも多くを失っており、二人の子供を一緒に育てられる者はいなかった。僕たちは別々の家族に引き取られ、そこで再び名前で呼ばれるようになった。

 ほどなく僕たちはそれぞれの家族とともに国を離れた。僕は〈わたし〉に宛てて、〈わたし〉は僕に宛てて、手紙を書き続けた。〈ぼく〉と〈わたし〉は二人だけの秘密の呼び名になった。

 春が過ぎ夏が去り、多くの歳月が流れた。

 遠く隔てられた地で僕たちは大人になったけれど、〈わたし〉も僕も、一日の終わりに見知らぬ人のために祈るのをやめることはなかった。そのような歳月の積み重ねが、僕と〈わたし〉という人間をつくったのだと思う。

 今日、故郷を離れてから初めて〈わたし〉に会うために、僕は地球を半周してやってきた。僕を迎えてくれた人々が、初めて会う人もみんな一目で僕が誰だかわかるというのはなんとも不思議な感じだったが、〈わたし〉の顔を見てそれも納得がいった。

 真っ白な花に埋もれて動かない棺の中の〈わたし〉は、やはり僕とそっくりな顔をしていた。

 黒いレースの手袋と白いハンカチが行き交う。

「あの戦禍を生き延びたのに」と誰かが囁く。

「なんてあっけない」と嘆く声がする。

 だがそれらの声を、僕の心は否定の身振りで聞き流す。僕たちが初めて地下室を知った夜、どこか遠くの国では僕たちの街の惨状とその日の野球の試合結果を報じていた。どれほど安全な遠い国にも、思いがけず病気や事故で命を落とす人がおり、その死を悼む人がいる。大切な人を失う悲しみに変わりはない。

 僕の〈わたし〉。その瞳が再び僕を見つめることはない。だが、そのまなざしが向けられていた未来を、守りたいと願ったものを僕は知っている。同じ顔をした僕の中に、同じ願いがあったとしてなんの不思議があるだろう。

 だからもう、死ぬってどんな気分なんだろう、と僕は考えない。

 今はわかる。それは悲しみから身を守る呪文だ。同時に時として悲しみを拒む者を死へとさらっていく危険な呪文。

 悲しみを受け入れなければ、涙を流すことはできない。涙を流すことなく、生きることはできない。

 僕は悲しみから身を守る代わりに今、呼びかける。

―-〈わたし〉、どこにいるの?

 懐かしい幼い声が答える。

―-〈ぼく〉、私はここよ、私はここ。

 あの日の雨のように、僕の頰を涙が流れ落ちる。

 〈わたし〉は、あの日の階段の上に立っている。

 行方のわからない子供も、生き残れなかった子供もいた。あの十月の〈わたし〉と僕は、今もこの世界にいる。

 〈了〉